「確率は収束する」
「いや、収束なんてしない」
この論争は、私が知る限り何十年も終わっていない。2020年に書かれたあるコラムには、4年後の2024年にもコメントが付いている。ライターも、プロも、一般のファンも、みんな一度は通る。そして誰も決着をつけられない。
理由は単純だと思う。両方とも正しいからだ。 ただし、指しているものが違う。
同じ「収束」という言葉が、実は4つくらい別のものに使われている。今回はそれを整理したい。数学の用語も出てくるが、全部かみ砕いて説明するので構えなくていい。
「収束」と呼ばれているものが、4つある
| 呼ばれているもの | 実際の挙動 | 「収束する」は? |
|---|---|---|
| ① 抽選確率そのもの(設定1のBIG 1/273.1など) | 動かない定数 | 収束も何もない |
| ② 実測の確率(当たり回数 ÷ 総ゲーム数) | 理論値に近づく | 正しい |
| ③ 累積の差(回数の差、金額の差) | 開いていく | 誤り |
| ④ 結果のばらつき方(ハマリや連チャンの起きる割合) | 理論通りの形になる | 正しい |
「収束しない」派が言っているのは、たいてい①だ。機械が過去の結果を見て「そろそろ当ててやろう」と確率を変えることはない、という意味になる。
「収束する」派が言っているのは、たいてい②になる。1万ゲーム、10万ゲームと回せば、実測のBIG確率は理論値に近づいていく。
両方とも正しい。だから議論が終わらない。
そして打ち手が本当に気にしているのは③なのに、①と②で言い争っているうちに、③の話は誰もしない。
数学の「収束」は何が収束するのか|大数の法則と中心極限定理
「大数の法則」が言っているのは、要するにこういうことだ。
サイコロを6回振っても、1が1回出るとは限らない。0回のことも3回のこともある。だが6000回振れば、1が出た割合は1/6にかなり近づく。60000回ならもっと近づく。
ここで、少しだけ立ち止まってほしい。
6000回振れば、1が出る回数の期待は1000回になる。実際に振ってみたら980回だったとしよう。割合は980÷6000で約1/6.1。理論値の1/6にかなり近い。
だが、期待の1000回に対して20回足りない。
そしてこの20回は振り続けても埋まらない。むしろ回数を増やすほど、こうしたズレは大きくなっていく。
近づくのは割合の方だけで、回数のズレではない。
もうひとつ、「中心極限定理」という定理がある。名前は物々しいが、パチスロに関係する部分だけ取り出すとこうなる。
結果のバラつきは、回数の平方根に比例して大きくなる。
回数が4倍になればバラつきは2倍、100倍になれば10倍。回数ほど速くは増えないが、確実に増えていく。
つまり教科書は最初から両方を言っている。
- 割合は収束する(大数の法則)
- 差は広がる(中心極限定理)
パチスロに翻訳すれば、BIG確率は1/273.1に近づくが、理論値より10回足りないという事実は返ってこない、ということになる。

「確率収束」という言葉の、たちの悪い罠
統計学には「確率収束」という正式な用語がある。これを見ると、たいていの人はこう読む。
「確率が、収束する」
違うのだ。正しくはこう読む。
「確率的な意味で、収束する」
修飾しているのは収束の仕方であって、収束する対象ではない。
同じ仲間の用語を並べると一目で分かる。統計学には「平均収束」もあるが、これを「平均が収束する」と読む人はいない。「平均の意味で収束する」だ。「分布収束」も同じになる。
確率収束だけが、たまたま日本語として両方に読めてしまう。
ホールの「収束」と数学の「収束」5つの違い
違いA 対象が違う
数学が収束させるのは割合だけだ。
ホールで「収束」と言うとき、多くは金額や回数の帳尻を指している。「マイナス10回分」「今月50万負け」。これは③の累積の差であって、収束しないどころか開いていく。
最大のズレはここだ。
違いB 到達点があるかどうか
数学の収束は「無限に続けたら」という話で、途中経過に貼れるラベルではない。有限の回数では「収束した」という状態そのものが定義されていない。
ところがホールでは「今日は収束した」「まだ収束していない」と、状態として使われる。ゴールがあるものとして扱われている。
違いC 主語が違う
これが一番見落とされていると思う。
数学の収束に主語はない。数列の性質であって誰の所有物でもない。ホールでは必ず所有される。「私の収束」「この台の収束」。
集団の性質を個人に帰属させてしまっているのだ。
打ち手全員の総ゲーム数を足せば理論値に近づく。それは事実。だがそれは「あなたの分だけが理論値に戻る」ことを意味しない。あなたの乖離はあなたのもので、永久に貼りついたままになる。
違いD 引き戻す力があるかどうか
数学の収束に「引き戻す力」は含まれていない。ただの数列の性質だ。
一方、「そろそろ収束する」が想定しているのは「平均回帰」という別の現象になる。そしてこれは数学にきちんと存在する。金利も、在庫も、体温も、離れると引き戻される仕組みが本当にある。
つまり打ち手は、間違った数学をしているのではない。正しい数学を間違った対象に当てているだけなのだ。 世の中の大半のものは実際に平均回帰するので、この直感は頑強で説明しても消えない。
違いE 何のために使うかが正反対
| 収束は何の根拠になっているか | |
|---|---|
| 数学・統計学 | 推定してよい根拠。サンプルから元の値を推定できる |
| ホール | 取り返せる期待。だから粘ってよい |
学問側の収束は、設定判別が成立する理由そのものだ。ブドウやREGの数から設定を推定していいのは、大数の法則が働くからに他ならない。
ホール側の収束は、粘る言い訳になっている。
同じ定理が判別の根拠にもなり、粘りの言い訳にもなっている。 しかも前者は正しく、後者は誤りだ。

パチスロライターたちは「収束」をどう言い継いできたか
このテーマは、名だたる書き手が繰り返し扱ってきた。しかも、それぞれが独立に思いついたのではなく、一本の糸でつながっている。
発端:「機械は収束させようという意志を持たない」
パチンコ・パチスロライターの佐々木真氏が2020年3月に書いたコラムがある。
そこでは、パチンコ・パチスロにおいて確率は収束しない、理由は独立抽選だからだ、と明快に述べられている。①の話だ。
同時に、長く打てば数値が落ち着くのは事実であり、それは当たりまくりやハマりまくりといった突飛な結果がサンプルの増加とともに薄まるからだ、とも書かれている。こちらは②になる。
①と②を分けたうえで、両方を言っている。 私がここまで表と用語を並べてやっと整理したことに、専門用語をひとつも使わずに到達している。
佐々木氏はこれを「突飛な事象の分散」と自分の言葉で呼んでいた。この表現の方が、借り物の用語よりよほど正確だと思う。
私は佐々木氏を数少ない本物のパチスロライターの一人だと思っている。自分で決めたことに対して徹底して合理的で、感情と数字を混ぜない。このコラムひとつ取っても、それがよく出ている。
応答:「確率は分散するもの」
その佐々木氏が、以前に「パチンコ・パチスロは引いたもん勝ち、確率は収束なんてしない」という趣旨のことをSNSで書いていた。
それを受けて書かれたのが、有名パチスロライター・しんのすけ氏の「確率は収束なんてしない話」というコラムになる。
そこでは、ある数学者から聞いた言葉として、確率は収束するものではなく分散するものであり、分散した結果が収束したかのように見えているだけだ、という趣旨が紹介されている。そして最後に、佐々木氏の考えに完全同意すると明言されている。
②と③を一息で言い切っている。
つまりこの二人は、たまたま似た結論に達した別々の書き手ではない。片方がもう片方に名指しで反応している。収束論は、個人の頭の中で完結する話ではなく、書き手から書き手へ受け渡されてきたわけだ。
ついでに書いておくと、しんのすけ氏は動画では終始おちゃらけている人だが、字を書かせるとスロッターとしての理屈を当たり前のように持ち合わせていることに気づく。誇示するでもなく、地の部分として置いてある。おそらくそちらが本体で、おちゃらけの方が芸なのだと思う。
用語が入ってきて輪郭がぼやける
話はここで終わらない。
佐々木氏のコラムのコメント欄で、読者から統計学に「確率収束」という用語があることが紹介される。佐々木氏はそのページを初めて読んだと明かしたうえで、「分布収束」という言葉を知っていれば良かったと応じ、引き負けしている人は分布収束を目指してサンプルを増やそう、と書いている。
そして翌日、別の読者への返信でも、サンプルを増やして分布が理論値に近付くのを待つしかない、とまとめ直している。一度きりの軽口ではなく、説明の型として定着している。
ここが気になった。
分布収束というのは、中心極限定理そのものの用語だ。そして中心極限定理が近づくと言っているのは、理論値ではない。差を回数の平方根で割った後の値が、正規分布という形に近づくという話になる。割る前の差の方は、その形のまま広がり続ける。
佐々木氏が意図したのは、おそらく「割合が理論値に近づく」ことだろう。それは大数の法則の話で、統計学の用語で言えば確率収束にあたる。近づく側の定理を言おうとして、広がる側の定理の名前を持ってきてしまった。
用語を借りた瞬間に、自分の言葉より輪郭がぼやけたのだ。 「突飛な事象の分散」の方が、何を指しているかはっきりしていた。
当事者による最も鋭い一行
同じやり取りの中で、佐々木氏はこうも書いている。
パチンコ打ちほど分布の収束を心の拠り所にしている人が多いように感じる。だから、意味が微妙に異なる確率の話でも、「収束」という言葉そのものを否定されると怒りたくなる気持ちが理解できた、と。
収束は打ち手にとって知識ではなく拠り所になっている。 だから否定されると、「間違いを正された」のではなく「支えを外された」と感じる。論争が終わらない理由の芯を当事者が一行で言い当てている。
私も人のことは言えない。下振れた日に「まあ長い目で見れば」と考えるとき、それは統計の話ではなく、自分を落ち着かせるための言葉になっている。
全部ひとつのコメント欄で起きている
佐々木氏のコラムのコメント欄では、他にも収束の話が起きている。
かつてバリバリのオカルト派だった読者が、現金機時代にひたすら回転数と大当たり回数を記録し続けたところ、回数を増やすほど分母に近づいていくのが手に取るように分かった、と書き込んでいる。②を自分の手で確かめた話で、完全に正しい。
興味深いのは、人から聞いても腑に落ちなかったから自分でやったという点だ。
ここまで挙げてきたものを並べてみる。
- 独立抽選だから収束しない、という①の主張
- サンプルが増えれば薄まる、という②の説明
- 統計用語が持ち込まれて、輪郭がぼやける
- 打ち手にとって収束は拠り所だ、という当事者の自己分析
- 自分でデータを取って腑に落ちた、という実証
- 4年後の2024年にも、また別の読者が書き込む
全部、ひとつのコラムの、ひとつのコメント欄で起きている。
それくらい、このテーマは誰も避けて通れないのだと思う。
「収束する」が半分正しいから話が終わらない
ホール側の用法は、完全な間違いではない。
「長く打てば設定通りの数字に落ち着く」は正しい。
ここまでは学問と一致している。問題はその次で、
「だから足りない分は戻ってくる」
これが「だから」ひとつでつながってしまう。落ち着くのは②の割合であって、戻ってくるわけではないのに。
正しい前半が誤った後半を支えてしまっている。完全な誤りなら反証を出せば終わるが、半分正しいので反証が効かない。だから何十年も続く。
そして先ほどの自己分析が効いてくる。収束は拠り所になっている。 拠り所は正しさで置き換えられるものではないので、数字を並べても届くのは頭までで、支えの部分には届かない。
さらに厄介なことに、この誤解を持っていても、行動としては正しい結論に着地することがある。「気にせず期待値プラスの台を打ち続ける」は、理由が間違っていても行動は正しい。
ただ、理由が間違っていると、下振れが続いたときに支えにならない。「そろそろ来るはず」で耐えている人は、来ないと分かった瞬間に折れる。

まとめ:結局「収束」はどう使えばいいのか

収束は「推定してよい」根拠であって、「取り返せる」根拠ではない。
- 判別には使っていい。 ブドウやREGの数から設定を推定するのは、大数の法則そのものだ。むしろ積極的に使うべきものになる
- 粘りには使ってはいけない。 足りない分が戻ってくる仕組みは存在しない



同じ定理を片方の用途では信頼し、もう片方では信頼しない。矛盾しているようだが、指しているものが違うので矛盾していない。
ここが腹に落ちれば、「今日はマイナス10回分だからそろそろ」で粘ることはなくなるし、逆に「過去のデータなんて無意味だ」と判別を放棄することもなくなる。
過去のデータは台の抽選には影響しない。だが、設定の推定には使える。
影響しないのは機械の側で、使えるのは打ち手の側だ。
この二つを分けられるかどうかが、収束という言葉を正しく扱えているかどうかの境目になると思う。
何十年も決着しない論争だが、決着しない理由自体は、たぶんこれで説明がつく。
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